『桃』

作品集『桃』発売にあたって  サイト版あとがき                            
姫野カオルコ

角川書店刊『桃』について、単行本巻末にあるものとは別の、「サイト版あとがき」です。

単行本巻末のあとがきは、「はじめて姫野カオルコの本に接する人」を読者想定して書かないとならなかったので、いくつか制約がありました。
なかでも苦しかったのは、
「この作品集『桃』は、ある長編小説と対になっています」
という部分。

営業部署のほうから「続編だと銘打つと〃正編を先に買わないとならないのか、じゃあ買うのはやめよう〃と思う人が出てくる。それに、じっさいに〃つづき〃ではないのだから、淡い表現にしてくれ」というような要望がありまして、こんな言い方をせざるをえませんでした。苦しかったです……(T_T)。

作家の公式サイトにアクセスして読む場合は、強弱の差はあれ、あるていどの目的意識(検索意識)をもっての読む場合だと想定されますので、ここにはもう少しありていに、あとがきを書きます。
「『桃』は『ツ、イ、ラ、ク』の姉妹編です。『ツ、イ、ラ、ク』を読んでいなくても読めるようにはしてありますが、やはり、できれば、先に『ツ、イ、ラ、ク』からお読み下さい」
と。

ああ、苦しかった……。『ツ、イ、ラ、ク』の帯の文ではありませんが、↑のことが言えなかったのは、苦しかったなあ。
読んだ人だって苦しかったのではないでしょうか。
そりゃ、そうですよね。作品集『桃』の中の「桃」なんか、『ツ、イ、ラ、ク』を読んでないと、なんのことかわからない。ましてやアンソロジー『female』の「桃」で、はじめて姫野カオルコの小説を読んだりなんかしたら、「もう、この人のは読まない」と思っちゃうよね。そりゃ、そうだよ。うん。

で、作品集『桃』ですが……。
短編集というよりは中編集に近いかもしれません。

ただ、冒頭のとおり『ツ、イ、ラ、ク』の〃続編〃と言い切ってしまうほどの「続」の要素はありません。
『ツ、イ、ラ、ク』の「別の角度編」とでもいえばいいでしょうか。

六話は、それぞれ文章の雰囲気がちがいます。ちがうけれども、六話は「田舎町ゴシップ」で括られています。

六人の登場人物たちは全員、過去に『ツインピークス』のような規模の町に住んでいました。現在も在住の人もいます。関西地方のツインピークスでは、過去に、事件と呼ぶにも至らない、あまりよくない噂というか、ようするに田舎町のゴシップが流れました。

六人達は、ゴシップの全貌を知っているわけではなく、なんとなく聞いたていど。なかにはまるで知らない人もいます。が、当事者もいたりします。当事者がひとりはいないと読者もそのゴシップがどんなものだったのかわかりませんから。

六人は過去の同じゴシップについて語ります。なのに同じできごとではない雰囲気になる。六人それぞれ、通過した時間がちがうからです。
その人が存在していること。その人がなにかを感じること、思うこと、変化すること。その人はその人の時間を歩いてゆく。時間の質量は概ね年齢に比例します。

そう、作品集『桃』の主役は、時間なのです。『ツ、イ、ラ、ク』と対になっているというのは、この点においてです。田舎町のゴシップというのは、もちろん長命町ゴシップのことです。

『ツ、イ、ラ、ク』のほうは、「時間」が「マスクをしたフィクサー」。作品集『桃』は、「時間」が「マスクを脱いだフィクサー」。
『ツ、イ、ラ、ク』でのフィクサーはマスクをして黒幕という文字どおり、幕の後ろに隠れているため、十代や二十代の読者が『ツ、イ、ラ、ク』という小説を読むと、読んでいただくことはもちろんたいへんうれしいのですが、料理でいえば、スープと前菜とサラダと紅茶を飲食して、メインディッシュとデザートは残したような読み方にならざるをえない。

サイト版ならではのあとがきとして、声を大にして言います。
「『ツ、イ、ラ、ク』は35歳以上の人向けの小説である」
と。
こんなことを言うのは、本の営業的にはよくないかもしれません。でも、どうしたってそう思う。

時代背景のせいではありません。
むしろ時代背景は読み手の年齢に合わせて自在に想像できるように工夫してあります。
性表現のせいでもありません。
むしろ性描写(具体的なもの)が『ツ、イ、ラ、ク』にはないはずです。ないから強烈にリアルに(35歳以上には)迫ってくるように工夫してあります。
『ツ、イ、ラ、ク』が、35歳以上の人向けの小説だというのは、「時間」というフィクサーの存在にほかならない。
マスクをつけたこのフィクサーの、いかんともしがたい強さと重さに、気がつけるのは、すくなくとも35年は人生を生きていないとできないことだからです。

その点、作品集『桃』は、フィクサーがマスクをはずして顔を出しているので、むしろこっちのほうが幅色い年齢層に向くのではないかと思うのです。

「あ、これは、ぼくとは(わたしとは)ちがう時代のことだ」ということがすぐにわかって、わかったうえで、読者は自分が生きている時代との差をちゃんとふまえて物語に接することができるからです。

それに六人それぞれのポジションから切り取ってあるので、たとえ彼らと年齢が異なっても想像力で補いやすいし、六話ともカメラアイが固定位置にあるから、読み手は時間というものをみつめなおしやすい。

町でゴシップが流れた、それから後、あるいは前、その町に住んでいた六人はどんな時間を歩いていたか。それを描出すると、時間というものが各人によっていかに異なるか、いかに多様かが浮き上がってきます。どこにでもいるような人間、などといった言い方がありますが、しかし、人間はひとりひとりその人にしかない個性で時間のなかを生きている。こんなあたりまえのことをつい忘れがちな日々のどこかで読んでいただければ幸いに存じます。

**せっかくなので『ツ、イ、ラ、ク』既読の方へ**

各収録作品についての簡単な紹介。

◇第一話「卒業写真」。

主人公は安藤健二。「この人、だれ?」と思われるでしょうね。『ツ、イ、ラ、ク』には登場しません。長編の主人公の一学年上の、野球部の桐野龍と同じクラスだった男子です。安藤健二は、健やかな少年が健やかな大人になったような人。彼の心象風景はそのまま、この小説集のプロローグになるのではないかと思い、巻頭に配置しました。

◇第二話「高瀬舟、それから」。

題名のとおりです。森鴎外の『高瀬舟』の読書会が図書室でおこなわれた後の数時間のできごと。六話のうちこの一編のみ、ずっと過去を現在時制として書かれています。『ツ、イ、ラ、ク』既読者には、懐かしい時代というかサービスカットというか……。

◇第三話「汝、病めるときもすこやかなるときも」。

主人公は塔仁原頼子。『ツ、イ、ラ、ク』のオープニングを飾って、クラスの土方歳三的統子に粛清されかかった人。現在は市会議員の妻。人柄おだやかなおだやかな彼女は、ある意味で最高の幸せを掴んだ人かもしれません。慎ましくて「セックス」などということばすら一生口にしなさそうにない彼女の、謙虚でありながら正直な性のめざめの瞬間を、彼女なりのことばで綴りました。

第四話「青痣(しみ)」。

主人公は田中景子。第一話の安藤健二同様、この人も「だれだっけ?」でしょう。『ツ、イ、ラ、ク』てレイチャン先生が教科書にある「ふるさとの葡萄」を生徒に読ませているときに思い出す、別のクラスの生徒として一行というか一語のみ登場しただけの人です。だからほんとに作品集『桃』は、ストーリー的には『ツ、イ、ラ、ク』を未読でも問題はない小説集ではあります。田中景子は、田舎町のゴシップの、小さな加害者でした。罪責感を上手く忘れられないまま大人になった。その寂しさを抱えて生きていて、だからこそとても清くもある。第五話は、そんな大人の女性の現在を、少しだけ祝福する一編です。

第五話「世帯主がたばこを減らそうと考えた夜」。

主人公は夏目雪之丞。数学教師。この一編がもっともヒメノ式だと感じる拙著の愛読者が多いと思われます。男の作家は、かっこいい性欲はよく描かれていますが、男の生理を意外に描いてくださいません。じゃ、私がこのネタいただきますよ。買ったと。男の生理とそのぬきさしならなさを、男でも女でもゲイからでもなく、まったくのゼロ地点から描く試みをした一編です。

第六話「桃」。

これは第二話「高瀬舟、それから」の女子生徒のほうの十八年後の物語。二十年後じゃなくて、十八年後。ここがミソ。勤めている精密電器会社が大々的な組織改正による人事異動をおこなう二年前だということです。この話に出てくる、ラーメンにバターを入れる上司は、『ツ、イ、ラ、ク』では、主人公を「大阪出身」と思い込んでいる人。この上司が自社製品のパッケージデザインを主人公にまかせることになって、彼女といっしょに高層ビルの階段をおり、そして階下で彼女は、ある人に会う……。


(補足)
本当は、「青痣(しみ)」か「世帯主がたばこを減らそうと考えた夜」かどちらかを総タイトルにしようとしていました。 しかし、そのときに「桃」をショートカットして『female』に収録して、オムニバス映画にしたいという話がきたため、映画になるなら「桃」を総タイトルにしたらどうかということになり、「桃」のほうが会議で選ばれました。「青痣(しみ)」でもよかったんじゃないかと思ったりします。思い入れ的には「世帯主がたばこを減らそうと考えた夜」にしたかったけど。


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