『リアル・シンデレラ』あとがき・1

             姫野カオルコ

 

 

 小学校。

 2年2組の教室。

 2階。

 黒板を背に、教卓を前に、先生が勉強を教えている。

 二時間目、算数。文章問題。「三郎さんは140円を持って買い物に行きました。ノートが50円、えんぴつが10円です……」。

 

先生のほうを向いて、勉強しないといけない。ちゃんと勉強しなきゃ。

 

 わかりつつ、首が窓のほうを向く。知らぬまに向いている。

 窓から木が見える。枝に三角屋根の小屋がとりつけてある。

だれがつくったのかな。六年生のお兄さんお姉さんかな。高学年を受け持っている先生かな。鳥が来た。小屋に入った。顔を出して空を見ている。

 

なんて幸せそうなんだろう。

 

思った瞬間、頭を叩かれる。

「よそ見してんとき!」

 はっと我にかえる。

 先生は立てと言う。立つ。授業中はちゃんとしなさいと言う。はい。すわる。

 

すわるとまた、いつのまにか首は窓を向く。「授業中はちゃんとしていよう」と思っているのだ。先生に「はい」と言ったときも、そう思っていたのだ。

 

でも、いつのまにか首は窓を向く。三角屋根の小屋。木の枝にちょこんと建って(とりつけられた、ではなく)いる小屋。青い空。白い雲。飛ぶ鳥。

 

なんて幸せそうなんだろう。

 

 小学校2年2組の教室で、そう思っていた私は、幼稚園の年長組のときにも、同じようなことを思っていた。年少組のときにも。

 

幸せな光景。それはむかしから、「小屋」だった。

 木があって、木もれ日がさしている森。小さな湖があって、そのほとりにたつ小屋。どこの国かわからない。だれかさえもわからない。だれかがいて、その小屋で、のどかに暮らしている。

 

幼いころから、はっきり言って「すさまじいまでに」この光景を羨望した。

 この羨望は、決して「変わった人」の抱くものではないと思う。細部は異なれど、おおむねこうした光景に、かぎりなき幸せを見る人は世界中に少なくないはずである。

 

たとえば、私が面識のある数少ない有名人に大槻ケンヂさんがいるけれど、大槻くんのエッセイにも「ぼくは、湖のほとりで一生を終えられたらいいなと思うような人間だった」というようなくだりがあった。

 

先生に頭を叩かれながらも、うっとりしてしまわずにはおれなかったあの鳥は、私の空想の中で、湖……といっても滋賀県出身の私には湖というと琵琶湖を標準ととらえる感覚があるため、コローや長谷川はじめの絵に描かれるような、滋賀県出身者には「泉」ととらえるくらいの規模の……、湖のほとりで暮らす人になっていたのである。

 

2年2組の担任は、磯辺先生だった。今思うと彼女の名は、海のそば、ではないか。

 

海のそばの名を持つ先生に叱られてから45年を経ても、私をとらえてはなさなかった、湖のほとりに住むだれか。45年たった今はもう、いくら細かく、いくら長いこと空想していても、頭を叩かれることはない。『リアル・シンデレラ』は、こうしてできた物語である。