姫野カオルコ(文)×木村タカヒロ『ボヴァリー夫人』角川書店
フローベールもびっくり!
鹿島茂・評 芸術新潮2003年6月号
古典は再話(リライト)を許す。ゆえに、皆、リライト(漫画、映画、TVを含む)でお手軽に済ませてしまって、原作(オリジナル)を読まない。
とはいえ、これはこれで決して間違った態度ではない。なぜなら、古典というのは細部を削ぎ落としても本質はいささかも損なわれないものであり、また、リライトが量産されてこそ、古典の視覚を得るともいえるからだ。
しかし、では、優れたリライトというものがあるのかというと、それはまた別の問題だ。なぜなら、優れたリライトをするためにはなによりも作品の本質を把握する理解力と、その本質を自分の言葉で言いなおす表現力がなくてはならないからだが、そんな能力のある人はリライトなどしない。かくして、優れたリライトというのはほとんど形容矛盾となる。
しかし、ここに小さな奇跡が起こった。『世界の名作を現代作家と画家がコラボ』が謳い文句のシリーズの『ボヴァリー夫人』がそれである。
まず、文を担当した姫野カオルコ。日本で唯一といっていいメタ文学の書き手である。メタ文学というのは、表面的な物語の上に、それ自身を批評するもう一つの物語が存在している文学のことで、『ドン・キホーテ』に始まって『ユリシーズ』に至る系譜である。
その姫野カオルコがメタ文学の最高峰『ボァリー夫人』に挑むのだからこれが興味をそそらぬはずはない。
また、絵を担当した木村タカヒロ。美術界の最注目株で、コラージュを主体としたその独特の画風は、挿絵にはピッタリの不思議な文学性を有している。
だから、この二人の手になる『ボヴァリー夫人』が面白くないはずはない。
「むかしである。男用の便利女と、女用の便利男、を比較して、両者がそっくりであることを知る機会など、少女にはなかった。(中略)エマは身を焦がして待っている。塔に閉じ込められた自分を、丘の上から馬にのってやってきて、さあっとさらっていってくれるヒーローの訪れを」
「免許医、シャルル・ボヴァリー。(中略)温和でまじめな男子生徒が、そのまま大人になったようなシャルル。永遠の少年。それはシャルルのためにこそあることば。しかし、少女も熟女も、女というものはたいてい、シャルルとは正反対の男を、永遠の少年のようだと形容する」
つかみの部分としては最高の要約ではないか。しかも、絵の方も私の知っている『ボヴァリー夫人』のどの挿絵本よりも人物の真実を衝いている(特にシャルル)。
ハイライトの農事共進会の場面は、まさに姫野節全開である。
「『どうしてってって…』ロドルフは自嘲するように鼻から息を抜く。『……それは、ぼくは悪い男だからですよ』様式美はいつも自分を悪い男だという。(中略)『友人? そんなもの…。ぼくはいままでだれにも理解されたことがなかった』様式美はいつも、理解されない。」
この農事共進会の場面から、森で二人が結ばれるところまで、挿絵はつづら折りに出来ていて、ロドルフとエマの、どっちもどっちの「様式美」が、しかも、十分に「メタ」を含みながら描かれていて見事。
最後の「184×年、フランスの地方の町。永遠の少女と少年の物語」という、結論=理解にも納得。
これは、『ボヴァリー夫人』の文と絵とによる完璧なる二重の「解釈」である。
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