京都新聞・2009年8月9日(日曜)・8面【読書】《本を語る》
『もう私のことはわからないのだけれど』 の姫野カオルコさん
〜自分に正直になって〜


温かみのあるオレンジ系の表紙を開くと、まず本書に登場する13人の名前と年齢、居住地が紹介されている。

共通点は、介護しなければならない親や配偶者がいること。年老いた家族への愛と義務感から献身的に介護しつつも、心には澱(おり)のようにたまる苦しさ。13人が吐露したそんな気持ちを拾い集めて一冊にまとめた。

家族との赤裸々な関係が浮き彫りになるのは、介護や病気だけではない。誰しもさまざまなきっかけで、家族に負の感情を抱くようになる可能性がある。  だが、そんな思いを抱えていても、「家族とは仲の良いものだ」との既成概念に縛られ、正直な気持ちを誰にも打ち明けられない。そんな人も多いと姫野さんは感じる。

「日々の生活で、〃寂しいもの〃を抱えている方に広く読んでほしかった」
 介護体験記ではなく家族体験記だという。
「親の介護などはまだ現実的でない年代の人たちが読んでも、当てはまるものがあると思います」

登場人物は、プロフィルも含めて実はすべてフィクション。地図を見て居住地を決めたら、その町の産業や人口構成、交通事情、方言などを調べたうえで人物像をつくりあげた。
「プロフィルを考えるのに一人につき一カ月かかりました」。
最後の注釈を見るまでフィクションと気付かないほど、リアリティーに富む。

姫野さんが「この本を届けたい」と思う人は、「この本を届けたいと思うような事情を抱えている人」。だから「抱えている事情のために日々の生活がつらい」。
そういう人は、
「家族仲もそこそこによく、親御さんもまだ元気で本人も元気な人とはちがって、余裕がないんじゃないかと思うのです」
と想像した。

「オーソドックスな形式の小説だと、物語の背景や人間関係をひとつひとつ頭に入れながら、長々と続けて読んでいかなければならない。

ひっきりなしに病人や施設から呼び出される事情のない人にはわからないかもしれませんが、こんな事情を抱えている人が長編小説を読む集中力をキープするのはたいへんなことです。

また、これは想像ではなく、年齢的に、小さい字やたくさん文字のつまったページが何ページもつづくのを見るだけで、目と頭が痛むという人は多いのです」。

でも、新聞の投稿欄なら読める。だからそのかんじで読めるような文体にし、末尾にプロフィルを付ける形態にした。「さびしさを押し隠している人たちに余計な手間をかけないですむようにしたかった」と話す。

「登場する人たちは、まっすぐに自分の気持ちを語っている。本を手に取った人は、どうかこの本の前では自分に正直になってほしい。遠慮なく愚痴を言ってほしい。この本の前では愚痴を言ってくださっていいから」

自身も病気の家族を抱え、自身も闘病中の姫野さんからの切なる願いだ。


(取材日・7月14日)

**「もう私のことはわからないのだけれど」は日経BP社刊。*
** 日経BP社のホームページからだと送料無料で買えます*

BACK