スノッブであること
excite ism 都会生活者のためのWEBマガジンより
2006・10/8
姫野カオルコさんの新著、『コルセット』を読みました。4つの短編からなる連作小説です。
たいへんお金持ちの、そして上流階級の(この二つは必ずしも一致しません)人々と、そうではない人々とのギャップをうまく利用した小説です。
ポイントの一つは性愛なのですが、姫野さんの文章には湿り気がありません。ジムで流す汗みたいな感じです。官能小説ファンには物足りないかもしれませんが、私はこういう雰囲気が好きですね。
上流階級の俗物性を、ほどほどにシニカルに書いているのも面白い。『ツ・イ・ラ・ク』や『ハルカ・エイティ』とはまったく違う世界です。
「甘い夢のように憂鬱」といったコピーに惹かれる人もいるのだということを確かめる試みとしての『コルセット』
姫野カオルコ
新潮広報誌「波」より
次のような文章に、たちどころに嫌悪感をおぼえる人が、きっといると思う。
『私はかれの方へ手を差し出した、かれはそれを握ると、私たちはゆっくりと私の下宿に向って帰っていった。玄関の前でかれは私の手を放した。私は車から降り、私たちは微笑を交わした。私はベッドの上にぐったりと寝転がると−−−』
戦後に「女性的な文体」とされた文体の代表のような文体である。映画でいえばカメラアイが主人公の胸の位置に据え置かれ、ロングではなくアップ多用の文章。
さてこの、「わたし」や「ぼく」「おれ」等の一人称で語られる小説は、読みやすさ(=とっつきやすさ)という点で有効な手段であるし、書く側からしても、書きはじめやすい手段である。だから若い著者はよくこの方法をとるし、若い読者もこの方法をとった小説を好むことが多い。
だから同時に、「こんなものは文芸部の童貞と女学生のためのもの」と、この手法の小説の小便臭さに鼻をつまむ人も出てくる確率も高くなる。そして事実、このカメラアイの小説は小便臭くなる危険が高いのである。
冒頭に例として引用したのはサガンの『ある微笑(朝吹登水子・訳)』である。で、フランスはサガンの作品だと知ったとたん、つまんでいた手はさっと鼻からはなれ、サガンが前にいるわけでも、サガンの耳に入るわけでも、どころか、だれひとりそばにいないにもかかわらず「みずみずしい文体に新しい世代の感性が描出されている」などと、急に思うのである。
サガンの『悲しみよ、こんにちは』の有名な冒頭をもじっていえば、滑稽〈さと甘さとがつきまとって離れないこの〉よくある反応に、スノッブという〈重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う〉が、およそ読書に親しんで来た人間には、程度の差はあれ、スノッブの部分があるのである。あるいは、過去にあったのである。
あったからこそ、自己内のスノビッシュ部分にふれてこられたり、過去のスノビッシュ期を思い出させられたりするところの、「わたし」「ぼく」の一人称小説を開くと、嫌悪というより羞恥をおぼえるのではないかと思う。
しかるに、このたびの新潮社よりの新刊『コルセット』は、一人称小説である。
姫野カオルコというのは若い女の子であると、なぜか錯覚している人が時々いるのは、ありがたいといえばありがたいのであるが、実は全然若くなく、髪はもう真っ白の日本人である。この、パリジェンヌでもなく若くもない私が、ここにきて、いままでとったことのない「わたし」が語る小説を書いたわけである。
一人称の体をとった小説は、これまでにも書いたことがある。だが、一人称で語る体をとっているがゆえにかえって語り手に主観から離れさせる任務を負わせた。作中の語り手がそのまま著者の主観を語るのでは、これこそまさしく高校文芸部員のファンシー日記である。恥ずかしいではないか。
たとえば森に菫が咲いていたとする。「おお、なんと美しい菫よ」と語るのが文学ではない。菫は美しいと感じたことと、感じている人間ともにカメラは向くべきである。「おお、なんと美しい菫よ」と思う「わたし」と、「わたし」の鼻はしかし団子鼻だと恥じている「わたし」を、さらに「わたし」はカメラを抱えて撮らねばならない。この客観、つまりロングカメラにウィットやユーモアや爆笑冷笑微笑といった人類だけが持ち合わせている感受性が生まれるのであり、この織りを、一人称小説にせよ三人称小説にせよ、私はずっとしてきた。すくなくとも目指してきた。
『コルセット』で、この考えを捨てたのではない。依然、右記のように考えている。いままでとったことがない手法だというのは、語り手のみならず、語り手がいる風景もすべてふくめて、カメラをロングに据え置いたということである。
これまでの私のカメラワークを好んでくれた人にとっては、いやかもしれないが、ものをつくる者は、好意が嫌悪に変わる恐怖を引き受けなければならないのである。でなければ、また次のものをつくれない。
『コルセット』は、第一話のラストが第二話の冒頭、第二話のラストが第三話の冒頭でラストが第四話の冒頭、そしてラストはまた第一話の冒頭にもどるというロンド形式になった四編で、それぞれを「わたし」という女が語っている。いうなれば、四人の女にひとりずつインタビューをしていった記録とでもいえばいいか、「わたし」が語るのを書き手はひたすら聞いていた。
四人の女のうち三人はとんでもなく裕福である。残りのひとりとて、彼女のかかわった相手がとんでもなく裕福である。なにより彼女たちの語る憂鬱が裕福である。それは聞き手である私にとっては、いい気な悩みともいえるのだが、おとなしく聞けた、すなわち書けた。
『コルセット』のカメラワークだと、彼女たちに滑稽を演じさせる必要がない。風景全体が、ある意味、スノビッシュな滑稽だからである。
ならば、このカメラワークを選ぶことによって、こうしたスノビズムは読み手に快感を与えると信じ、まったくの他人である四人の「わたし」の言い分を黙って聞くという作業を、長い年月小説を書いてきた自分への新たなる試練とした。
【余談】
さて、以下は余談である。
『コルセット』を書くにあたって、ふたりの女性のことを思い出していた。
彼女は……と、ややこしくなるので、ひとりにまとめるが……、彼女は、『コルセット』に出てくるような階級の人であった。
「チョーお金持ちな家の娘」とか「チョーお金持ちな家の奥さん」というのには、それまで会ったことがある。こうした人というのは、庶民がTVや雑誌で見たデータにより想像しやすい。
だが、『コルセット』に出てくるような階級の人というのは、一見、地味なのである。一見、そのへんの、ごくふつうの(経済状態の)家の娘や奥さんとみわけがつかない。むしろ、妙に貧乏くさいところがあったりする。妙にあばずれたところがあったりする。
(日本でもっとも高貴な家の、近年、都庁勤務の男性と結婚された人やブログを公開なさっている方などを思い出してみてくださると、ちょっとわかりやすいでしょうか)
私の会ったその彼女は、鳥のから揚げが大好きだった。
それも「天狗」「北の家族」といった激安チェーン店の、片栗粉たっぷりのから揚げが。
「こんなとこワタシいやよ」的な発言も行動も、彼女はいっさいしない。私はブランドに疎いが、だれかが「××さんの今日のスーツはシャネルだった」と言ったところ、ほかのだれもが「えーっ、気がつかなかった!」と驚いた。
シャネルといって庶民が想像するようなシャネルのスーツではなく、シャネルの本店で採寸して縫ってもらったか限定品のスーツを着ていたからである。紺に紺色でCのマークが入っているのだが、目を凝らして見ないとわからない。
彼女に交際を申し込んだ庶民の男性がいた。その男性と私は知己であった。あとで彼から聞いたのだが、交際についてはとてもやさしい顔で、断られたという。理由は、「お金のある人でないとうまくやっていけない」ということをとてもやさしい顔で言われたそうだ。ふられた彼は、けっして貧乏な人ではなかったのだが……。
それでいて、彼女は、いつもどこか貧乏くさく、それでいていつもどこか「クラースがちがう」のである。『コルセット』の階級の人たちを、庶民につたえるには、「血のかよっていないかんじ」を文体にできると、それがいちばんいい方法ではないかと思った。
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