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メディアに掲載された姫野カオルコ作品の書評を紹介(桃/角川書店)

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『ツ、イ、ラ、ク』と『桃』を読んで

                      
小早川正人(『ああ正妻』)

まず最初に申し上げるべきは、私は出版社に勤務する編集者であり、一男性読者として率直に本書ならびに『ツ、イ、ラ、ク』の感想を書いたということである。

私の年齢は四十三歳。担当するジャンルはおもにノンフィクション。仕事上、文芸とは無縁である。しかも最近では、プライベートでも小説というものをまったく読まなくなってしまっている。

多くのサラリーマン同様、私は毎日、何かと大変である。平日は残業、接待でいつも午前様。帰宅してからも持ち帰った資料を読まなければならない。

休日は妻の買い物のつきあいと子供の塾の送り迎えであっというまに過ぎる。唯一自由になる通勤電車の中は、睡眠を補い、朝から妻に罵倒されて乱れた気持ちを鎮め、新聞や企画書などに目を通す貴重な場所である。

そんな私にとって、小説とは読むのに時間がかかるわりに実益が伴わないものでしかない。

実益とは、なにも「チェス必勝の裏ワザ」とか「絶対失敗しない愛犬しつけ術」とか「悪妻に復讐する法」とかのことではない。読んだ時間に見合った楽しさとかわくわく感といった、ちゃんとした手応えのことである。

もちろん仕事に直接関係ないとはいえ出版社社員である以上、文芸時評で話題の小説を読むことはある。

しかし、たいていは「ふーん」という感想で終わってしまう。まあ悪くはないが、とくに読まなきゃいけないものとも思えない。読んだ、という手応えがない。

少なくとも私は、こんな小説ばかりならこの世からなくなっても困らない。

そして、仕事や家庭を持つ忙しい大人の多くが、私と同じように思っているのではないかと考えている。立花隆だって「小説は読まない」と言っているではないか。

だったら、こんなところにしゃしゃり出て解説なんか書くな! と読者は怒るだろう。

いつもの私なら吃って謝るところだ。しかし、本書については、こんな私だからこそ書けることがあるのではないかと思ったのである。

姫野カオルコの『ツ、イ、ラ、ク』と、対作品(ついさくひん)である本書『桃』を読んで、私はこれまでの小説に対する考え方が一変してしまった。
読んでよかったと思える小説に初めて出会った気がした。

もとより解説などという偉そうなものは書けない。だが、日本のサラリーマンの一人が感じたままを書くことで、私のように小説とは無縁に生きているすべての男たちに、なんとか本書の存在を知ってもらいたいと強く思ったのだ。

本書のなかでとくに私は「世帯主がたばこを減らそうと考えた夜」について述べたい。

『桃』という女性的な書名に隠れてはいるが、この作品こそは世の男たちすべてに読んでほしいと切望する。

「世帯主がたばこを減らそうと考えた夜」を読んで、私は嗚咽した。

飲んだ帰りにサウナで流す汗のようなお決まりの涙ではない、心の奥底の塊を溶かしだすような熱い涙があふれてきて止まらなかった。

小説を読んでこんなに泣いたのは初めてだった。そして泣いたあと、心が少し軽くなった気がした。

大げさね、と本書のおもな読者層と思われる二十代や三十代の女性は言うかもしれない。だが試しにこの作品を、あなたの周囲の大人の男性(お父さんは照れくさければ学校の先生や職場の先輩)に薦めてごらんなさい。

賭けてもいい。「こんな小説が読みたかった」という感謝か、「なんてものを読ませたんだ」という困惑か、いずれにしても尋常ではない反応があるはずだ。おそらくはみな、目を潤ませながら。

なぜこの小説は男を泣かせるのか。

それは姫野カオルコが、夏目という初老の男のなかに「少年」を見ているからだと思う。

この作品が「ある五十代男性の屈折した心理を克明に描いた小説」であるだけなら、さほど珍しくはない。所詮それは作家が創作した他人事であり、大人は他人事にやすやすと感情移入などしないものだ。

しかし姫野は、少年が年齢を重ねて仕事や家庭を持つにつれ、抗いようもなく理不尽なものを抱えていくさま、つまり少年が大人になるまでに誰もがたどる普遍的な道程を、夏目に託して描いている。

だから男たちは、夏目を見ているうちに自然と思い出す。輝いていた少年の日を、人生が不本意な方向に転じた分かれ道を、犯してしまった過ちを、とっくに忘れたつもりでいた「こんなはずではなかった」という思いを。

そして、やり場のない後悔に身悶えするのである。

姫野はそんな夏目を、男たちを、肯定も否定もしない。ただ「とっくり亭の少年のような店員」の口を借りて、そっとこう声をかけるのだ。
「なにか食べはったほうがええんちゃいますの?」

これだけでいい。これだけで、大人は熱い涙を流し、癒されるのだ。

いまこのページを読んでいる若い男性、いや女性にも、どうかわかってほしい。これは断じて、オヤジの感傷ではない。

大人の男たちがどうしようもない自分を引き受け、明日からまたなんとかやっていくために必要な活力となる、涙という名の汗なのだ。

姫野本人による「あとがき」に、本書の蔭の主役は「時間」と書いてあるが、「世帯主がたばこを減らそうと考えた夜」にかぎらず、この短編集に私が心揺さぶられた理由、それはおそらく人間のかなしみや切なさを長い時間軸の上に置いて、普遍的、構造的に描いているからである。

私の場合はまず、冒頭作品「卒業写真」の次のくだりで涙腺をやられた。 「小さなみずうみのそばの部屋でひとり、安藤はほほえむ。安藤本人は気づいていないが、それは、十四歳だった安藤にほほえんだ梁瀬由紀子のようなやさしいほほえみであった」

『桃』という短編集の主役が「時間」であることを象徴する一節である。

しかし、このように「時間」を主役にすることは、どんな作家にでもできることではない。

姫野カオルコにそれができるのは、「少年」を描けるからである。女子が夢想する絵空事の少年ではなく、真にリアルな少年を。

だから読者は難なく時間軸の「起点」に立ち、作品に身をまかせながら自分の記憶を蘇らせることができる。そして、大人になってしまった少年である自分の姿を、鏡に映すように突きつけられる。

そのリアルさは、「じつは姫野カオルコは男ではないのか」と疑う人さえいるほどである。

実は(実は、というのもへんな言い方ですが)姫野は女である。では女である彼女に少年や男が描ける理由とはいったいなんだろうか。

私が思うに、そのひとつは、姫野が「共学」出身だからではないだろうか。「共学」とは男女共学の学校のことだ。

小学校、中学校、高校と、人間の基礎がつくられる時期に「共学」だったか、「別学」、つまり男子校や女子校に通っていたかの差は世間が思っている以上に大きい。

それは私自身、妻子や同僚と接していて痛感するところだ。

あえて暴論を承知で言おう。

異性の他人と日常接することのないままに育った「別学」の人間にとって、夢想のなかの異性とは一個の人格というよりは目的物に近い。

極論すれば、男にとって女は「守ってやる代わりにやらせてくれるもの」であり、女にとって男は「やらせてあげる代わりに守ってくれるもの」なのである。

一方、異性の他人と日々接する「共学」の人間は、男も女も異性を性的対象として見つつも、一個の人格としても向き合わねばならない。

その葛藤のなかで異性への洞察を深め、「違い」を理解する態度を養う。だから「共学」出身の女が男を見つめる視線は、男がなまじ自身に向けるそれ以上に鋭く、容赦のないものになるのである。

しかし、「共学」出身の女性作家が誰でも本書のような、大人の男を泣かせる小説が書けるわけではない。

姫野カオルコにそれができるもうひとつの理由、それは姫野の「目線」の位置にあると思う。

先に引用した「卒業写真」の一節をもう一度ご覧いただきたい。 ここで安藤のほほえみを、十八年前の梁瀬由紀子のほほえみと同じだと観察しているのは、作者自身の目である。

姫野の作品にはこのように、登場人物を少し引いた場所から客観的に眺める描写がしばしば見られる。それが、彼女が描く人物像に普遍性を与え、大人の読者をも感情移入させるのである。

最近の小説を読んでいて私がしばしば感じるのは、どれも作家の目線が登場人物にかぎりなく近く、ほとんど同一のものばかりだということだ。

それでは個人の日記かブログを読まされているのと変わらないではないか。

姫野のような目線の位置をもっている作家として、私にはもうひとり、思い当たる作家がいる。司馬遼太郎である。

姫野自身も司馬ファンであることをインタビュー記事で知って、私は大いに納得したものだった。人間を戦国や幕末の群像の中に置いて見つめるのが司馬遼太郎なら、男女の群像の中に置いて見つめるのが姫野カオルコなのだと思う。

あくまでも趣味嗜好の次元になるが、私の中では姫野カオルコは「歴史小説」である。ほかの作家の恋愛小説が「時代小説」であることと明らかに一線を画して。

本書『桃』の本編ともいうべき『ツ、イ、ラ、ク』は、まさに大河のような時間の流れに少年少女の群像を置き、恋愛を濾過装置にして人間の成長する姿を描いた大作である。

その『ツ、イ、ラ、ク』とほぼ同時期に刊行された、同じように学校や生徒や教師をアイテムとする恋愛小説が二つあった。

一つは二十代の、いま一つは四十代の、ともに女性作家による二作品はいずれも売り上げが十万部を超え、四十代作家の作品は文学賞を受賞して映画にもなった。ところが『ツ、イ、ラ、ク』は、この二作品に比べて売り上げでも評価でも大きく差をつけられている。

なぜそんなに差がついているのか? 試しにそれらの作品を読んでみて、私の頭の中は疑問符だらけになった。いずれも、私にとってはそれこそ、「ふーん」と思うだけの作品だった。

女性による、女性&女性の考える男を描いた小説であるそれらは、男の描かれ方がきわめて平板であり、自分にとっては遠い作品でしかなかった。

たしかに面白くないわけではない。この二作がきめこまかな女の心情を描いたブンガク的な恋愛小説として「一定の支持」があるというならわかる。

しかし現実には、この二作と『ツ、イ、ラ、ク』との評価の差は、圧倒的なのだ。

第一三〇回直木賞にノミネートされた『ツ、イ、ラ、ク』についての、「オール読物」二〇〇四年三月号掲載の選評によると、選考委員から概して次のような「難点」が指摘された。

「主人公たちの小学校時代や中学校時代の描写は冗長である。これは不要ではないのか」

読んで私はあきれ返った。

先に述べたように『ツ、イ、ラ、ク』は、「時間」を陰の主役にすえることで普遍性をそなえ、大人を感動させる物語になっているのである。その起点となる登場人物たちの少年少女時代をカットしたら、それは長命市という架空の町で起きた恋愛騒動にすぎないではないか。そんなものは、子供しか読まない。

思わず私は邪推してしまう。

選考委員になるような、文壇の偉い作家や評論家の先生には「別学」出身者が多い。

高齢なので「別学」が一般的だった世代だからだ。彼らは「女子ごとき」に男のリアルな内面を抉り出されることが不愉快なのではないか。

いやもしかしたら、抉り出されていることに気づいてさえいないかもしれない。だから作品全体のテーマが根底から理解できないのではないか、と。

あるいは、こう勘繰りもする。

功成り名を遂げた彼らにとって、もはや物語の普遍性や明日への活力などはどうでもいい。

ただ「作文の上手な女の子」がその場その場、一行一行を健気にブンガク的に踊ってさえいればご満悦なのではないか、と。

もしそうだとすれば、文壇において姫野カオルコは異端の作家であろう。姫野の、つとめて平明な文章で、恋愛を構造的に描くことで人間そのもののかなしさ、切なさ、おかしさを表現しようとする姿勢は。

そして世の中には、お子様の日記的な小説ばかりが「ベストセラー」となって流通してゆく。

話は飛躍するが、いまこの国は、まるで子供の国である。国会ではその名も小泉「チルドレン」が跋扈し、子供のしつけは学校でしてくれと親が要求し、したら人権をふみにじったと怒り、テレビのなかではなんの芸もできないタレントが大物然としてふんぞり返って好感度ナンバーワンなどといわれている。

物事の本質にこだわる大人がどこにもいない。私にはそうしたこの国の 「子供化」が、小説の世界でも進行しているように思えてならない。

そして物言わぬ多くの大人たちは、きょうも急ぎ足で職場へ向かうのである。彼らは気づかない。おかしな王国からひとり離れて彼らを見つめ、彼らが本当に読むべき小説を書いている作家がいることに。

大人たちよ、小説を読もう。大人たちがブンダン崇拝から脱し、自分の目で小説を選びはじめたとき、『ツ、イ、ラ、ク』と『桃』が日本現代文学史上の金字塔であることがわかる。

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