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メディアに掲載された姫野カオルコ作品の書評を紹介(蕎麦屋の恋/角川文庫)

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『蕎麦屋の恋』角川文庫

●ダカーポ・442(4/5日)号

相変わらず、うまい作家である。

ドラマチックで深刻で、もうドロドロという作品ではなく、さりげない切なさみたいなもの の描写に、この人の本領は発揮されるのではなるまいか。

本人によれば本書は、日常生活に潜む、ふとした出来事をすくいとった短編集だそうだが、 表題作に関してはやはり上質の恋愛小説であるように思う。

通勤電車のなかで出会った中年サラリーマンと、調理師専門学校の講師をつとめる女性。過去の小さく苦い挫折を抱えたふたりは、途中下車した駅の蕎麦屋でせ いろをすすり、ただテレビを見てはしゃぐ。さらりとしたのど越しの蕎麦のごとく、後味のいい大人の恋である。


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●『スワンの涙と非喪失のせつなさ』/小森健太朗

本書のあとがきで、著者はこう述べている。「私は、名前がへんてこなのと、女であること で、非読者(名前だけ知っていて実際には読んだことのない)には、『いわゆる恋愛小説』を書いていると思い込まれているふしがある」。たしかに姫野カオル コは、恋愛小説の書き手であるというのが一般的な認識であろう。

しかし、作者の言によれば、『変奏曲』一作以外に恋愛小説は書いていないという。その主 張を反映してか、本書の表紙裏のそでには「姫野カオルコが描く、六つの非・恋愛小説」とある。このキャッチコピーは、本書の恋愛の描き方を的確に反映して いて、本書を一読して浮かび上がってくるのは、「恋愛小説ならざるもの」である。本書は、「非恋愛を描いた小説」であり、一種の「反・恋愛小説」であると 位置づけることができよう。

「あとがき」でいみじくも著者自身が「非読者」をまず名指したように、どんな作家であれ、全体の人口の中でみれば、少数の実際の読者に比して、その背後 に、はるかに数多くの、匿名の非・読者がいることになる。ただし、ここでいう「非・読者」とは、まったく知識も情報をもたない、無関係な一般人のことでは なく、耳情報にせよ、著者のことを少しは知っている「非・読者」を指示している。

「非」という言葉はこの場合、無関係を意味するのではなく、「非」という形を通しての、一種の関係性を意味している。この「非」は、マルティン・ハイデ ガーが『存在と時間』で「世人(ダス・マン)」という形で名指した一般人の、「何でも一応通じている」とするありかたと深く通底している。姫野作品の 「非・読者」にとって、姫野の小説は、レッテルでのみ理解されるにすぎないゆえに、「恋愛小説」以外の何物でもない。しかし、姫野作品が、作者の主張通 り、「非・恋愛小説」であったとしても、それもまた、一種の「恋愛小説」であるのも、また確かなところである。

以上のことから明らかなように、本書を解読するカギを、漢字一文字で表すなら、「非」ということになろう。常に、「非」を通し、対象となるものでなく、そ の背景をネガのように浮かび上がらせようとすること──それが、著者が一貫して採用している方法である。

本書の表題作「蕎麦屋の恋」は、「男の章」「女の章」「男と女の章」の三つに分かれるが、「男の章」で浮き彫りにされるのは実は女であり、「女の章」では 逆に男である。そして「男と女」の章では、「恋愛ならざるもの」が鮮やかに浮かび上がってくる。この作品で印象づけられるのは、対象となるものを常に埋没 的に描写することで、逆説的に照射される背景の鮮やかさである。

この短編集の中でひときわ異彩を放つのは「スワンの恋」である。表題作でないこの作品にこそ、本書の核心と主題がこめられていると言ってよい。この作品だ けは、一見したところ、集中の中で、唯一ストレートに恋愛を描いた、まがうかたなき恋愛小説に他ならない外見を有している。

しかし、その印象が持続するのは、物語の中盤までに過ぎない。最後で明かされる真相は、この作品で描かれていたことが、恋愛でなかったことを暴露するから だ。この作品は、一種の叙述トリックが仕掛けられた小説であるがゆえに、他の作品と違って、ストレートに恋愛小説の外貌をまとうことができたのだ。そして 仕掛けがあらわにされた反転の後、それでも、せつない喪失感が読者の胸に浮かび上がってくることで、この作品は逆説的に恋愛小説としても成功しているとい う、奇妙な二重性をその構成に孕んでいる。

愛する者が失った喪失感を描くことは、恋愛小説においては、一つの常套といえる手段であるが、「スワンの恋」で、その喪失感をストレートに描くことで、そ の感情を読者に伝えることに成功しているのは、その背後に以上の二重にひねられた仕掛けがあるからに他ならない。通常の恋愛小説では、恋愛をストレートに 描くことが困難なのと同様、恋愛の喪失感もまた、ストレートに描出することは極めて困難な主題である。この作品では、語り手が、実は〈それ〉を喪失してい ないにもかかわらず、喪失していることを擬態しているという背後の事情が、その困難の克服を可能ならしめたのである。
 語り手のぼくは二十四歳で「平凡にさびしかった」とある。最後まで読むと、語り手の「ぼく」は、平凡ではなかったのではないかという疑いも起こりうる が、ここでは「平凡」と「さびしい」という二語の結びつきが浮かび上がらせる、無名の語り手の存在感のない存在感に着目したい。付き合う相手を求めていた 「ぼく」は、「高校時代の同級生」に、ニ**という女の子を紹介され、付き合うようになる。自分を出すのが苦手なニ**に最初は気づまりで、ぎこちない関 係しかもてなかったが、ひとたび彼女が心を開くや、運命の絆で結ばれたように、深く濃い交感へと入ってゆく。「ぼくらは愛し合うように仕組まれていたので はないかとさえ思う。ニ**の身体はぼくのためにできていた。ぼくのためにニ**の身体は敏感に反応した。ぼくの指にあわせて、ぼくを見つめながら。…… 琥珀の秋がきたころには、もうぼくにはニ**しか見えない。ニ**の身体はぼくの精神。ぼくの指はニ**の唇。ぼくらは互いを貪り合う。長い夜のあいだ じゅう、朝になってもぼくはニ**を、ニ**はぼくを離さない。彼女はぼくのために泣き、ぼくのために喜び、あえぐ」(187−188頁)。この美しい交 歓が、その後の喪失のせつなさを美しく対比で描きだしている。
 「スワンの恋」は、一人でも多くの方(特にPCメーカーの方)に読んでもらいたい名篇である。(内容に関する予断を避けるために、登場人物の名前を一 部、引用者の判断で伏せ字とさせていただきました)。
 SGL01044@nifty.ne.jp


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