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メディアに掲載された姫野カオルコ作品の書評を紹介(ツ、イ、ラ、ク/角川書店)

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『ツ、イ、ラ、ク』角川書店

●au oneブック 2008年3月 (評者・落合早苗)

【『ツ、イ、ラ、ク』/墓に持っていきたい、大人のための恋愛小説】

日ごろから仕事で本(電子書籍も含めて)を大量に読んでいると、作品の見方がシビアになってきます。良くも悪くも鑑賞眼が肥えてしまって、感動の敷居がどんどん高くなってしまう感じ。

それでも年に1冊くらいは、「墓に持っていきたい」ほどの感動に出会うこともあります。いつまでもそのストーリーの余韻から醒めないでいられる、その作品の断片に触れただけで(たとえそれがタイトルだけだったとしても)、やさしい気持ちになれる、そんな作品です。

今回ご紹介する「ツ、イ、ラ、ク」(姫野カオルコ/角川書店)は、私にとってそんな作品。
デジタルファイルでは墓に持っていけませんから、あらためて書籍を買いなおしましたが。

ストーリーは、ある小学校の教室からはじまります。
「友だち同士」という名の、案外窮屈な小社会。大人になると決して「初恋」とは呼ばない、異性への不器用で幼い想い。
学校での、家庭での、ありふれた日々。まるでこの時間が永遠につづくと思えるほど、物語も淡々と、ていねいに綴られていきます。

やがて舞台は中学校へ。
ある瞬間、少女は恋に墜ちます。たぶん、「好き」という気持ちを自覚するより前に、文字通り墜ちてゆくのです。
この日を境に、少女の日常は一変します。
世界のすべてが放り出されてしまうほどギリギリのところで、二人は愛し合しあい、少女は一気に「女性」へと駆け上がるのです。ほかにはなんにも、見えないし、いらない。
恋が実った陶酔感もなく、ただただ求めあうくだりに、心がキリキリとしめつけられていきます。

突然訪れる別れ。狂おしいほどの恋慕の情を抱えながら、少女は卒業していきます。
ラストシーンは、恥ずかしながら号泣。ですが、その涙とともに、魂が浄化されたような…。

色褪せることのない、ほんとうの恋。若さゆえの傲慢と、苛立ちと、そして輝き。
そういうものに気づいた時こそ、ひとは「大人」になったといえるのかもしれません。
もう戻ることはない日々(それは恋愛に限らず)を、本書は私たちに再びなぞらせてくれます。
だからこそ、その輝きの記憶を、本書といっしょに墓に持っていきたいの、かも。

忘れられない恋を心の片すみに抱えている、あるいは抱えたことのある、大人のための恋愛小説です。

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●推薦文(田辺聖子)

この小説の真の主人公は〈青春〉である。
青春のたけだけしい残酷さと、きらめきと、悲しみ。
ヒロイン隼子の魅力と存在感は圧倒的である。
現代の日本文学は新しい才能を得て、美しき野趣にみちた〈青春小説〉を得た。

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●読売新聞(2004年1月25日・夕刊)
(評者=角田光代)

主人公・森本隼子の恋愛が勃発(という言い方は妙だが、しかしそれ以外に思い当たらない)するまで、彼女のすむ退屈な田舎町と、そこに暮らす人々が緻密に描かれてゆく。読み手が中学生隼子の恋に、深い絶望と刹那的な官能を、たじろぐぐらいの臨場感で感じることができるのは、この緻密さによってである。

恋の当事者が十四歳だとはいえ、ここで描かれるのは恋愛の錯覚ではなく実体を持った恋である。

クラスメイトたちがゆっくりと少女から女性になっていくなかで、隼子は超高速で大人になってゆく。 少女の無垢と無知、大人の猥雑と諦観、それらを読み手に俯瞰させつつ物語は進む。

官能的な小説でありながら、揺るぎない気品が全体に漂っているのは、主人公の清潔感によるものだと思う。その清潔感に魅せられ、私は森本隼子の恋を心から応援した。祈りすらした。

  小説の登場人物の幸福を、幼稚なくらい夢中になって願うなんて、本当にはじめてのことだ。



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ブックナビ(評者=雄)

笑える恋愛小説――と、この本を言ってみても、おそらくどんなイメージも浮かばないだろう。 そもそも「笑える」と「恋愛小説」とは結びつきにくい言葉だし、誰もが思い浮かぶような先行モデルもない。

この小説は「笑える」といっても、面白おかしいというより知的な笑いだし、「恋愛」といっても、甘く切ないものというよりむしろ狂おしいほどの感情の嵐を指している。その異質なもの同士がからみあい綾をなして、ユニークな、そして実に楽しめる小説が生まれた。

姫野カオルコという名前は前から知っていた。でも『変奏曲』とか『不倫』というタイトルからして、自分の興味とはまったく別のところで書かれている小説だろうと思っていた。だいたいカオルコなんて名前からして少女趣味だし、その上に姫という字が乗っかっているのだからなおさらだ。

『ツ、イ、ラ、ク』も、帯に「忘れられなかった。どんなに忘れようとしても、ずっと」「心とからだを激しく揺さぶる、一生に一度の、真実の恋」なんぞとあって、最初に書店で見たときは、なんとかの真ん中で愛を叫ぶ類のものだろうと思って手が伸びなかった(読者の大半は10代、20 代の女性だろうから、こういう帯をつけた編集者の判断は間違ってはいない。ただし、中身を正確に伝えていない)。

はじめはそんな気分だったのに、ちょっと読んでみようかと思ったのは、中条省平の彼女に触れたコラムを目にしたからだ。ついでながら、中条省平の書評やコラムは、僕が新しい本やマンガ、映画を選ぶ際に参考にしている書き手のひとり。やや誉めすぎのきらいはあるが、裏切られることは少ない。

前置きが長くなった。この本の笑いは、物語のなかに作者がやたらと顔を出すことから生まれてくる。それも、よくあるように地の文と見分けがつかないようさり気なく登場するのではなく、作者が露骨に顔をのぞかせて本文を離れてしゃべり出す。登場人物のせりふに突っ込みを入れ、 ボケをかまし、あるいは歴史的人物を引き合いに注釈をつけ、データを示し、社会的背景を語ったりもする。

 例えばこんな具合。

「愛(登場人物の名)は、初夏の雨の日に準備室にいたと隼子と××を覗いてしまったが、同性愛の覗き魔にはならなかった。彼女は自尊心の強い女だった。(ここまでは普通の描写)
愛の悲劇は、さっさと大政奉還した徳川慶喜を見限らず、変わる時勢に背を向けて武士という名に自尊心をかけたことである。新撰組のような女である。
祈り。両手を組んでぬかずく儀式的な行為は、愛に、宗教的免罪符を与えてしまった。
これだけ祈っているのだから『そなたはけなげに努力している。美人ではないがかわいい女であるぞよ』という許しのロザリオを、儀式は愛に与えた。
神がかりに自己肯定するブスほど怖ろしいものはない」

あるいはこんな部分。

「神社で結ばれたAとBは、一組と七組という遠距離恋愛になった。
『××君とは離れてしもたけど、かえってよかった。新鮮さが保てる。スパイスがわりに浮気してもいいかも』
京美は統子に言う。(ここまでは普通の描写) 中学生がスパイスがわりの浮気などいかがなものかと顰蹙するのは死を控えた動物だけで、十代とは四六時中性欲があふれているホモサピエンスなのである。性欲という言い方におためごかしな花柄カバーをつけてほしいなら、『恋に恋する』とでもしておく」

果ては読者にマークシート式のテスト、しかもここに書くのもはばかられるセックスにまつわるテストまでさせたりもする。

「言うたれ言うたれ、塔仁原(登場人物の名)! 避妊もできない男のチンポなど腐った胡瓜だ。蛆虫チンポだ。がんばれ、塔仁原!」などと、登場人物をアジテートしたりもする。

もっとも全体がこんな調子なのではない。メインはあくまで男と女の話なのだが、そこここで作者が語りだしてしまい、そんなカオルコ的独断がツボにはまったとき、読者は声をあげて笑うしかない。

引用からも想像できるように、主人公の女は中学生の隼子、男はxxである。

物語は隼子の小学生時代から語り出され、恋愛ものである以前にまず男の子と女の子の「学園もの」ドラマとして展開される。隼子は女の子5人グループのリーダーでもサブリーダーでもないが、単独行動をしがちで、他の女の子たちからは「生意気」と見られている。友達の家に遊びに行けば、大人から「早熟」と評される。

男子の噂に上る印象的な生徒ではないが、「半開きの唇」や「長く形のいい足」をもった隼子の存在に××が教室で気づき、ついには恋人同士になるまでが、恋愛小説としてのこの物語の読ませどころだ。隼子が無意識に、また意識的に繰りだす媚態に若い××が蜘蛛の糸にからまれるように魅入られていく過程が、いくつものシークエンスで周到に描かれる。

とはいっても、普通の恋愛ものがもつ雰囲気描写やエロティシズムからは遠い。読者が甘く快い気分にひたれるような文章は避けられ、××が隼子に狂っていく心理が、カオルコ的突っ込みを伴いながらせりふと行動で示される。夏休みには「話すのももどかしく、彼らはヤった。服を脱ぐのさえもどかしく、彼らは犯った。ヤって犯って」、以下「ヤって犯って」の文字が実に108回繰り返される。

二人は××と××の関係なのだから、当然のこととして長くは続かない。その別れの場面は、日本海を望むビジネスホテルに設定される。

「壁の薄い、旧式のラジオが置かれたホテルだった。ただ、窓から海が見えた。
『いちおう海の見えるホテル』
自動販売機で買った、いちおう夜明けのコーヒーを飲んで隼子は言った。
(なぜもっとあとにめぐりあわなかったのだろう) ××は言いかけて、やめた」

108回の「ヤって、犯って」の無機質な言葉の羅列の果てに、ビジネスホテルと自動販売機という道具立て、二度繰り返される「いちおう」が、カオルコ的な悲しみの表現なのである。

物語は最後に、20年後の現在が語られる。30代になった彼ら彼女らの結末については触れるのをよそう。 けれども、ちゃんと思春期の読者も、50代のすれた男をも満足させるような「恋愛小説」に仕立てあげられている。ひとことで言えば、泣ける。

この本を読んだ後、10年前に書き出され、彼女が「私小説的」と呼ぶ『ドールハウス』『喪失記』『不倫』の3部作に目を通した。

『ツ、イ、ラ、ク』の「笑い」は既に『不倫』で姿を現しているが、彼女自身をがんじがらめにしたらしい青春期の自意識の糸をどのように解きほぐし、それを客観視して小説の技へと変換し、カオルコ式笑いを「発明」したかが手に取るように分かる(話題の綿矢りさちゃんも、持てあましている自意識を、いずれこんなふうにうまく小説の技に変換してほしい)。

だからこの「笑い」は言葉の技巧ではない。姫野カオルコの精神と肉体に発する技だからこそ笑えるし、同時に泣けもする。二人の主人公を取りまく男の子、女の子たち、清楚にして淫蕩な女教師など、脇役がしっかり書き込まれているのも魅力だ。

(雄)


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●週刊朝日(2004・12/19号)
「本の隙間」(評者=齋藤美奈子)

〃一度読んだら癖になる〃

この欄のタイトルにかこつけていうと、姫野カオルコはまさに「本棚の隙間」的な作家である。熱狂的なファンがついているのと裏腹に、文壇的にはいまいちメジャーになりきれない。

まず、この女のコっぽい名前が誤解を招くんですね。「姫野カオルコ? それはバレリーナの絵が得意なイラストレーターですか?」みたいなイメージ。なので、みなさま素通りする。

それと本の売り出し方も、なんかちがうんですよねえ。新刊書『ツ、イ、ラ、ク』の帯にはこう書いてある。〈忘れられなかった。どんなに忘れようとしても、ずっと〉

もっとよく読むと〈すべての人の記憶に眠る、官能の目覚め。狂おしいまでの恋の痛み、恋の歓び〉とも書いてあり、その横には〈今年度最高の恋愛文学〉とあり、背表紙のキャッチコピーが〈一生に一度の、真実の恋〉で、裏表紙にまわるとさらにダメ押しで〈苦しかった。切なかった。ほんとうに、ほんとうに、愛していた〉。

角川書店は姫野カオルコの営業妨害をしてんじゃないかとさえ思う。
だってこれだけ愛だ恋だといわれたらですよ、「世界の中心で愛がどーしたとかいうのと同じたぐいの小説ですか」と思うでしょう、知らなければ。 「ワシには一生関係のない本じゃ」と判断するでしょう、心ある読者なら。

と、こ、ろ、が。「ワシには一生関係のない本じゃ」と思ったあなた。あなたこそ、じつは姫野カオルコにもっとも相応しい読者なのである。

『ツ、イ、ラ、ク』は彼女の四年ぶりの長編小説である。そしてバリバリの恋愛小説だ。しかし、姫野カオルコが「ふつーの恋愛小説」を書くわけがないのであって(ということを彼女の読者はみな知っていて、だからカバーのキャッチコピーは一種のパロディと考えることもできる)、この本も彼女らしさにあふれた快作だった。

物語の概要を一応いっとくと、舞台は西日本のとある田舎町。同じ町で育ち、同じ小学校に通い、同じ中学校に進んだ十人ほどの少年少女が登場する。

恋愛小説といったけれども、これは「中学生日記」のような学校の群衆劇でもあって、「一組のだれだれどう思う?」みたいなところから話ははじまり、いつしか「高校教師」もかくやのレベルにまで物語は発展するのだ。

ただし「中学生日記」でも「高校教師」とも当然それはちがっているわけで、姫野カオルコの姫野カオルコらしさはこんなところにあらわれる。
〈もしかしたら何人かの男は、女が初潮を境に急に変化すると思っているのかもしれない。(略)だが体験してわかる。月経とはただ毎月出血するだけで、ブラジャーはたんに衣類だと〉

あるいはこんなところにも。
〈若き日の重要な時期に、天才詩人の兄からの流用を聞き、学んだ者は幸いである。出所がどこであろうと、詩人の発言は正しい。コンドームもできないペニスは発泡スチロール以下の屑ペニスである。言うたれ言うたれ、塔仁原! きみの発言はインターナショナルに全時代に通じるものだ!(略)きみの発言にはヘンリー・ミラーもアーサー・ミラーもグレン・ミラーも土下座する〉

そしてこんなところにも。
〈中学生がスパイスがわりの浮気などいかがなものかと顰蹙するのは死を控えた動物だけで、十代とは四六時中性欲があふれているホモサピエンスなのである。性欲という言い方におためごかしな花柄カバーをつけてほしいなら「恋に恋する」とでもしておく〉

おお、そうだった。思春期って本当にこうだった、と感傷的な気分に浸るも、次の瞬間、ひと言多い語り手が文にしゃしゃり出てきて読者を現実に引き戻す。それが快感。

ロマンチストがリアリストかといえば彼女はリアリストである。いや、その極北かもしれない。そういう本は百万部は売れない。そのかわり、小説が好きで批評も好きな人ならきっとハマる。姫野カオルコは癖になるのだ。



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●週刊読書のおかず
本のむこう側(文・永江朗) 

ひとを泣かすのは簡単だ。 けれど、笑わすのは難しい。

最近の日本の小説は涙の大安売りだ。「泣ける」とか「泣きました」とか、そんな惹句ばかり。泣きたい人が読んで、期待どおり に泣けて、「よかった」「感動した」といっている。すべてが期待どおりなら、自動販売機と同じではないか。

以前インタビューした某シナリオライター兼小説家の、「涙のボタンだけは押さない」という言葉が忘れられない。彼によると、客を泣かせるのは簡単なのだそうだ。いくつかの条件を用意すれば、いとも簡単に人は泣く。しかもなぜかこの国では、涙は高級で笑いは低級ということになっているから、泣かせる作品のほうが評価される。そんな自動販売機みたいな作品を書くのは、作家として堕落ではないかと彼はいう。

いや、昔から泣かせることが評価されてきたわけではない。「お涙ちょうだい」なんていう言葉もあるのだから。お涙ちょうだいにたやすく感動してしまうほど、ナイーブな人が増えているのか。蛇足だけど、ナイーブはほめ言葉ではない。姫野カオルコはデビュー以来一貫して機知と笑いに富んだ小説を書いてきた。笑いといっても、笑うために脳のなかでかなり複雑な手続きを取らなければならないような種類のものだ。自分を突き放し、客観視してはじめて到達できる笑い。お涙ちょうだい小説に感動してしまうような人には、きっと理解できない笑いだろう。書いている当人にそのつもりはないのに、姫野カオルコの小説は読者を選ぶ。

彼女の小説は不当に評価が低いと思われるが、たぶんそのへんの事情による。

姫野の『ツ、イ、ラ、ク』は、いままでの彼女の仕事の総決算ともいうべき傑作だ。950枚の長篇恋愛小説、ではあるのだけれども、これを恋愛小説と呼んでしまっていいのかどうか。この小説で徹底的に記述されるのは、小学校低学年から中学校卒業までのあいだの、少年少女たちの自意識だ。姫野が純真無垢な心なんか描くわけがないのは当然だけれども、ここまでグロテスクで滑稽だとちょっとたじろぐ。

過剰な自意識。自分を納得させるための複雑な儀式。見栄。利己心。傲慢さ。しかも、怖いぐらいの官能性も持っている。それがユーモラスに書かれているのだから、とんでもない小説だ。

読みながら赤面してしまう。たぶん誰もがそうだろう。恥ずかしかった幼い日々がよみがえってくる。くそっ、封印していたはずなのに。

涙なんかこぼしていられない。でもこれを笑うには、自分を相対化するという壁を乗り越えなければならない。



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●天衣無縫に描いた一生に一度の恋
北上次郎 文芸評論家 2003年12月14日 朝日新聞掲載 


ヘンな小説だ。最初はそう思う。生硬な文章が続くかと思うと、感情表現豊かな文章が突然入り込み、なんだなんだと思っていると、心理テストまで挿入されるのである。これではばらばら、不統一と言われても仕方がない。

しかし、にもかかわらず、読み終えてみると、この自由奔放、天衣無縫の文章が心地よく残っていることに気づく。ざらざらと硬い文章の中にオアシスのように柔らかなものがあり、そのごたまぜの世界まるごとが、この作品には必要であったことに気づくのである。

描かれるのは、十四歳の女子中学生と若き教師の恋だ。それが許されぬ恋だろうが、十四歳だろうが、すべての恋がそうであるように、しょせんは恋の話にすぎない。一生に一度の恋、と考えるのは勝手だが、当事者以外の他人にしてみれば、ふーんと思うしかない。もう恋愛小説に関心も薄れてきているし、オレ、忙しいんだし。

という作品との距離を、ぎくしゃくした文章が、自由奔放な文体が、どんどん埋めていくのである。斜にかまえていると襟を掴(つか)まれて、ぐいぐい物語の中に引きずり込まれていくのだ。

姫野カオルコの読者なら、この天衣無縫の文体と構成に出会うのは初めてではない、ということにも触れておかなければならない。たとえば『レンタル(不倫)』を想起すればいい。普通の恋愛小説を笑うようなこの長編は、批評精神あふれる姫野カオルコらしい作品だった。だからその意味でこの作者が変化したわけではない。

変化はコロンブスの卵だ。『レンタル(不倫)』の手法で、今回はなんとストレートな恋愛小説を書いたのである。正統派の恋愛小説とはもっとも遠くにあると思われていたケレンたっぷりの構成と文体で、一生に一度の恋を真正面から描いたことこそ、今回の驚きといっていい。それがこの二人の恋を鮮やかに浮き彫りにする結果になっているのは前記の通り。苦しく切ない恋が、きわどい綱渡りの末に、かくて我々の前に現出するのである。


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